演奏と録音
録音された演奏はいかにして録音作品になるだろうか。
あるコンサートがあり、偶然その会場付近でフィールド・レコーディングをしていた作家がいるとする。作家が録音したもののなかには、会場周辺の環境音と共にコンサート会場から漏れ聴こえる演奏が混ざって収録されていた。作家は、演奏者からの承諾を得て、作品の経緯をクレジットした上で自身の作品として発表した。ところが、会場から漏れ聴こえてくる(とされていた)演奏の音量の方が実は遥かに大きく、環境音はほとんど聴き取れなかったとすればどうだろう。ほとんどの聴き手はこの作品を、ある演奏家のライブ・レコーディング作品と捉えてしまうのではないか。
あるコンサートで、演奏会場に演奏者(らしき人物)はいるが、楽器や機材が何一つ見当たらなかったとする。コンサートは始まったが演奏者は何もせず座ったままで、何かが聴こえてくる気配もない。しかし、観客には「我々はコンサートが行われるという告知を見てこの場所に来ている。ここはコンサート会場であり、そこで行われるのは演奏である」という了解がある。彼らは自身の音楽に関わる知識や経験をもとに想像を巡らし、その状況を演奏として受け止めることが可能だろう。また、もしコンサート録音されていたとすれば、「演奏が録音されているのだから、これは演奏に違いない」として、この思考への確信をさらに強くすることも出来るだろう。コンサート会場において、録音は演奏という概念を成り立たせる要素の一つとしても機能する。しかし、コンサートという概念においては、コンサートが行われなければ演奏は行われず、したがって録音も行われない。コンサート会場において、録音は演奏に内包されているのである。
このコンサートと同様の演奏が、録音作品として出版されるために録音スタジオにて行われるとする。録音スタジオにおいては、演奏は、コンサート会場および観客との関係性から切り離され、独立する。この演奏はコンサート会場で行われたものと同じものであるとは言えないのではないか。スタジオ・レコーディングという概念においては、録音作品の出版が為されないのであれば録音は行われず、したがって演奏も行われない。録音スタジオにおいては、演奏は録音に内包されている。
このように演奏と録音の関係性は、一方通行なものではなく、それらが行われる状況によって変化している。録音された演奏が録音作品となるために必要なものとは、この関係性の変化を見つめることではないだろうか。(June 2007)