小さい音
音の小ささは聴こえる聴こえないは別として、小さいということ自体がまぎれもない特徴である。小さい音による演奏は観客の聴覚を集中させることになるが、それも度合いによるだろう。あまりに小さければ何を聴くべきか判断がつかず、集中するどころかむしろ苛立ってくるのが人情である。何を基準に音の大きさを判定するかといえば、これは騒音計と同じ理屈であり、ヒトの聴覚に由来するところのものである。同時に音が発せられる場所や状況もそこに絡んでくる。私たちの聴覚のダイナミックレンジは実際の音のエネルギーだけではなく鼓膜の仕組みも関わる問題である。鼓膜は非常に薄い膜であり大きな振動によって揺れれば、同時に起きた小さい音はその大きな波にマスキングされ、聴こえなくなってしまう。大きな波に小石を投げても波紋が掻き消えてしまうのと同じである。
このCDは録音スタジオでの即興演奏が記録されている。7人が7人とも非常に小さい音で演奏している。恐らく彼等はライヴ演奏でも同じようにするだろう。どれくらい「小さい」のかと言えば、演奏されたほとんどの音が演奏行為に付随して表れる身体の動きによる音、例えば楽器を触る音や衣服の擦れ等より小さいのである。密閉された録音スタジオであるのに微かに侵入した周辺環境の暗騒音が演奏にかぶって聴こえるほどである。まるでどこかの事務作業の様子をこっそり録音したかのような、何が行われているのか不明瞭極まりない演奏。音はすれども、それが意図的な発音なのか否か、もしかしたら演奏した当人たちにも正確には判らないのではないだろうか。まったくもって奇妙な記録である。この演奏はそれが行われた場所を浮き彫りにする類のものではない。音の小ささあるいは聴こえ難さに焦点が当てられている。小さい音は物理的にも心理的にも余韻がない。発せられた音に残響が起こるほどのエネルギーがないこと、観客の記憶に残りにくいゆえの印象の薄さである。これが小さい音のユニーク性である。ならばそれを音楽あるいは演奏の要素としてクローズアップしてみようということなのだろう。これは間違っても繊細な聴取に収斂させようとする音楽ではない。ぶっきらぼうに残されたままの暗騒音がこれを否定している。しかし面白いことに聴いていくと徐々に演奏のさまが見えてくる。私たちは即興演奏の新鮮な姿にゆっくりと焦点を合わせることになる。居心地の悪さを感じながらも。 (April 2007)