Hello を聴いて思ったこと
数年前、ストローブ=ユイレの『セザンヌ』を観てから私は西洋絵画について考えることが多くなった。近代美術側からすると、セザンヌはモダニズムの先導者と見なされている。セザンヌで肝心なことは抽象画の一歩手前まで近づいた絵画構造であり、色彩に関しては、私はまったく注目していなかった。ところが映画で引用されるセザンヌと詩人ガセケの会話には意外なほど色彩に関するものが多い。そこには実に古典的な、形而上学的嗜好があり、ストローブ=ユイレはその映画に、事物の成り立ちを四つの要素の混合と変遷と説いたエンペドクレスをモチーフにした自身の別の映画の断片を挿入し、古代ギリシャから連綿と続く西洋の光の哲学を想起させる。そしてゆったりとサン・ヴィクトワール山を鮮やかに写し出し、セザンヌの言うところの「大気の理論」を私たちに見せつける。私には虚を突かれた思いだった。
光=色彩。遠近法=形態。これがその構築性を支える重要な柱である。これに抵抗したのが新大陸から登場したミニマル・アートだった。西洋絵画の、まるで王座のように中心へと向かう構築性に、彼らは単純化されたユニットの複数分割と反復という手法で対抗した。確かにその瞬間、ミニマル・アートは鮮やかだった。いまでも初期のミニマルは美しい。しかし西洋の構築性を解体して一番困ったのは、当のミニマル・アーティストたちではなかったろうか。その後にほとんど実りがなかった。色彩から光の哲学が消え失せ、構造から奥行きが閉め出されたあと、どう発展させるのか。ルウィットにしろ、マンゴールドにしろ、まさかモンドリアン側に就くわけにもいかず、自らのトレードマークを再生産することで、壁に塗られたペンキと美術を区別するしか打つ手がなくなった。ミニマル・アートは絵画(彫刻)に覆われた歴史を初期化することに成功したが、同時に美術作品を物質と概念に分断してしまったのかもしれない。コンセプチュアル・アートが後に続くのは自然な流れだった。一方欧州では、その直後にボイスに師事した優秀な画家たちの手によって、絵画は弁証法的な手法によって蘇生された。イミ・クネーベル、ジグマー・ポルケ、ゲルハルト・リヒター、ブリンキー・パレルモ等だ。彼らはより柔軟な思考を持ち、受け継ぐものを知っていた。それはアイデアや引用の入れ物となる構造だ。それは一夜にしてできたものではない。
実験音楽ではどうだろうか。可能性を試す場と謳いつつ、様々な出会いや機会をすべて同じ平板な台の上に乗せているだけではないだろうか。異種混合は大歓迎だが、その異物がどんな脈絡を持つのか、責任もって自問すべきだろう。
情報や物事が溢れ、その扱いが画一化したとき複雑さは必要ない。要素を減らす作業はこの場合有効である。扱われるものが際立ってくるからだ。開拓された耳に音の快楽はもう充分だ。興奮のかけらもない静かな実験現場。東京の地下では、そんなライヴが密かに繰り広げられ、冷静な観客たちによって問題が共有される。週末のお楽しみを期待する者は大いに失望するだろう。Helloはそんなところで生まれたバンドだ。このシーンを知るものなら Hello が杉本拓の音楽の強い影響下にあるのに気づくだろう。ここに吹き込まれた楽曲の構造も一時期の杉本の発想に似ている。ここには3つのパートがある。ピッチが僅かにずれた弓奏される2本の音叉とギターの単音。各演奏パートそれぞれ同じ譜面を使い、それぞれ1分ずつずらしながら発音する。各発音毎、1分間の休符をはさみ、1分、2分、3分と、1分ずつ発音時間を延長し5分まで持続。その後、同様に休符を挟んで 5、4、3、2、1分と逆に進み終了する。3つのパートの輪唱のような重ね合わせ構造となっている。わずかな要素と抑制された演奏。それらがシフトしていくのを聴き手は受け止める。ごく普通の感覚で聴けば退屈の極みだが、紡ぎだされる展開を最後まで聴いていくと、これ以上何も必要ないのではないかとすら思えてくる。本来、揺らぎがないはずの音叉がここでは雄弁だ。音楽は時間芸術である。この楽曲ではひとつひとつのパートが重ね合わされることで時間の構造ができる。3つの楽音とその構造。これらによって表された時間の流れが音楽になるのだ。(2009年1月)