今回のCDに入れた "Dot (73)" は2003年の9月にシドニーでおこなったライヴです。録音では頭の何十秒か(たぶん無音部分)が欠けているので、正確には抜粋ということになるのでしょうか。マシュー・アールが録音してくれていて、今年私のところに送ってくれました。この曲は、オーストラリアから帰国してすぐ、シドニーでのライヴの何日か後ですが、進揚一郎君のバス・ドラムでも演奏していて、コンサートが終了してからお客さんのひとりが「この曲にはどんな意味や意図があるんですか?」、こんなようなことを訊いてきて、その時私は「何もありません」と答えました。これは少しぶっきらぼうだったと思いますが、今考えても「これはこれ」で、意図があるとすれば「これはこれ」を遂行することにあります。
この曲のシドニーでの演奏については、大友良英さんのJAMJAM日記の「聴く」のアンケートで詳しく書きました。言葉で説明するとああなります。そして今回録音を聴いてみて、まさしく自分で書いた通りでした。
何かになってはいけないと思うんです。というのは、「音は正直だ」とか「自己超越としての表現」とか「聴覚を研ぎ澄ます」、「空間的」だのの実際は何を言っているか分からない「言葉」の一群があって、これらはある種の音楽と対応しています。すべてではありませんが、「即興演奏」──以下、私の扱う問題は即興とその周辺に関してのものです──と言われるものの多くは特に、これら「何を言っているか分からない言葉達」との格闘から逃れることが困難になっています。これらの「言葉」の示す特徴が即興界の微妙なジャンルを規定しているわけです。だからどんなことをやっても、結局そういうものになってしまう。言葉や言語から「音」を引き離す、実はこれ結構難しいんです。完全にそれをおこなうことは多分不可能でしょう。ならば、言葉や言語化を戸惑わせたり、ためらわせたり、つまずかせたり、突き放したり、つまりお互いがリッチになるような関係、そういうのを発見すべきなのかもしれません。
この前来日していたハープ奏者のクレア・クーパー嬢に私の書いた英語のエッセイ (今回のCDの為に書いたものですが) を見せたときに彼女が言った感想というのは、私の考えが哲学的、論理的で──自分ではそうは思いませんが──聴き手に音についての思考を強いることになり、音楽を純粋に聴くことを困難にさせる、というものでした。思考は聴取の妨げになるらしいです。
果たしてそうなのでしょうか。
私達の無意識には幾つかの言語/言語化へ向かう流れがあり、音をただ聞いたり、楽しんだりする場合でも、又その音/音楽についての判断、批評、理解、共感等を表す場合でも、それらが何らかの作用を及ぼしている、と考えるべきではないでしょうか。その中には音そのものも言語的に解釈されている領域があるはずです。「音楽を純粋に聴く」とは何を意味するのでしょう。クレアは単に、変な先入観──今回の場合は、私自身の自分の音楽に対するドグマ (らしい)──を植え付けられることなしに「音楽」に向かいたい、と言いたかったんでしょう。それはよく分かります。しかし事はそう単純ではないのです。
私達の社会的/文化的背景と、意識や無意識の中にある言語と言語化作用、音の種類や構造、個人的な嗜好、その他要因は色々あると思いますが、それらの緊密な関係から「音楽」だけを取り出すことは無理です。これらは関係し合っています。ある音が危険を察知させる等の役割を脳が認識する場合、その危険は私達の社会構造と無関係ではないことが多いはずですが、しかし同時に認識作用自体は動物的で本能的な反応でもあるはずです。これは「感情」と同じように、それだけでは芸術になりえないはずです。「音楽」が生まれるには、音とその他のより複雑な要因との関係が必要になってきます。この錯綜した関係にある秩序や道筋が見い出されたとき、それは価値あるもの──「音楽」──となるのでしょう。しかし私は、複雑さを、自由な交通の流れを、柔軟さをこの関係に持ち込むことに価値を置きたくなります。
例えば、「感覚として音楽を捉えている」と思うときでも、それは上に述べた関係の流れがある一定の方向を持ち、そこに意識を向かわせているだけかもしれません。この作用を起こすものは、その音楽を聴くときに私達が知らず知らずに採用する一定の言語/言葉/道筋のせいではないでしょうか。そうではないかもしれませんが、私の考えは、「純粋に音楽を聴く」ということの中には、聴いている音楽の種類と対応した「言葉」、又それが引き起こす一方通行の流れに、意識的であれ、無意識的であれ向かう危険性があるのでは、ということなんです。これは硬直──イメージの固定化──を引き起こします。
問題を単純に「音楽」と「言葉」(この中には言語化作用も含む) だけに絞ります。ある音楽なり演奏形態が決まり切った言葉しか引き出さなくなったのであれば、それは多分、音楽の方に責任が多くあるのでしょう。しかし、言葉の方でももう少し気の利いたことを言ってほしいな、とも思うのです。このふたつの対応関係がパターン化すればするほど、お互いの貧困化を招きます。最近の音楽批評を例に取っても、音楽家が書いたものも含めて、それらのほとんどは、個人的な感想、音楽の形式的な側面、文化とそれに伴う音楽の変化、文学へのコンプレックス、自己満足を満たすためのはけ口、何を言っているのか理解できない (又、そのことを笠に着た) 精神論、面倒くさいのでこのへんにしておきますが、そういった逃げ場を各自が作って、その中で自らもがいている、そんな印象を受けます。そしてこのことは音楽の側にも見事に当てはまります。それぞれの音楽が自らの形態や正当性を守るために、それぞれに対応した「言葉」を故意に引き出させ、それが音楽と言葉の自由な関係を閉鎖させているような気がしてなりません。
音楽の側からありきたりの言葉を引き出させないようにすることはできるでしょうか。私が冒頭で述べた「これはこれ」というのは、ある音楽が言葉を疎隔させることに成功したならば、両方の間に張られた交通網をいったんリセットすることになり、音楽をただそれだけの現象として独立させる、又はそのように感じさせることができるのではということを意味していました。私の場合は、ひとつにはフォルムの強調です。こういった手順を踏んだ音楽が、感覚的なものや主題の展開とは無縁に、ただそれ自身の言語を作っているだけであれば、これに対応する「言葉」はまだ十分に開かれていないのではないでしょうか。「音楽」と「言葉」、このふたつを孤立させるような状況を作って、その間にある複雑な関係に目を向ける。これは十分考えられます。これを音楽の方からやるには、感覚的とされるもの(定義が難しいですが)から出来るだけ縁を切ろうとする覚悟が必要です。あいまいさは捨てなければいけません。
意識の特定の部分か、又はある部分に向かおうとする意識 (無意識) なのかは分かりませんが、そこから表れてくるものはフォーカスです。ところがこのフォーカスの背景には、複雑な関係の網が眠っています。あるきっかけがフォーカスの背景にあるこの網に光を当てることがあるはずです。どのような音楽がそれを可能にするかはまだ分かりません。しかし、それを成し遂げる公算が低い音楽というのは、それに対応する言葉を見れば判断できます。言葉を注意深く見張っている必要があるのです。
杉本拓 2004年7月